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『弘前市のミステリーロマンと徳川家康の実像』(9月 湯川 悟 相談員)

 弘前市は、桜とリンゴで全国的に有名ですが、「みちのくの小京都」ともいわれ、多くの寺や神社があります。弘前城の西南には、「禅林街」があります。二代目藩主津軽信枚(のぶひら)が、津軽一円から曹洞宗のお寺を集めた寺院街で、33の禅寺が林のように並んでいることから名づけられており、同じ宗派の寺院がこのようにまとまって建っている所は全国にも類を見ないそうです。
 宗徳寺(そうとくじ)は、湯川家の菩提寺ですが、禅林街の中にあります。この寺は、初代藩主、津軽為信(ためのぶ)が実父武田守信の菩提を弔うために建てた由緒ある寺院です。私は、長男なので毎年墓参りに行きますが、すぐ近くのお墓に全国から多くの人達がお参りに来て記念写真を撮っていることにたいへん興味がありました。墓碑銘は、読み取れませんでしたが、はっきりと「豊臣の文字」が刻まれていました。2000年4月、宗徳寺の黒滝信行住職さんが、お墓に御経をあげにみえた時に、思いきって誰のお墓なのか聞いてみました。そのお墓は、石田三成の次男のお墓だと聞いた時は、正直半信半疑でした。しかし、その話は次々にテレビ、マスコミ等でも取り上げられて、現在は、宗徳寺は、石田三成の次男石田重成(しげなり)墓があることで全国的にも知られるようになりました。
 重成と三女の辰姫を津軽に逃したのは、為信嫡男であった津軽信建(のぶたけ)です。かれの烏帽子親が実は石田三成でした。重成を津軽に逃がしたのは、その恩義に報いるためだったそうです。信建は、大阪城で豊臣秀頼に小姓として仕え津軽家の正式な後継者として期待されていました。しかし、病気のために1607年に死亡しました。その後、初代為信も亡くなり、次男信堅(のぶかた)も既に亡くなっていたので、津軽家は、三男信枚が継ぐことになりました。
 重成は、津軽に逃れた後杉山源吾と名乗り、津軽家の庇護を受け、隠棲したといわれていますが、重成の長男である吉成(よしなり)は、家老職につき、子孫は代々津軽藩の重臣として仕えました。
 さらに驚くミステリーがあります。豊臣秀吉の正室・高台院に仕えていた辰姫はやはり津軽に逃れ、二代藩主信枚の正室になっていました。しかも彼女は、三代藩主信義(のぶよし)を生みました。つまり、三成の血統が津軽藩主家に伝えられたのです。津軽藩は、石田三成に血縁関係のある藩主家と重臣家が支えたのです。しかも重臣杉山家は、豊臣性を称していました。
 さらに驚くミステリーがまだあります。初代藩主・津軽為信の菩提寺・革秀寺(かくしゅうじ)の霊屋(たまや)には、石田三成の次男・重成がもたらした秀吉像が安置されています。漆が多用された豪華な霊屋の内部には、金箔漆塗の豪華な逗子(ずし)に入った小型の中年期と思われる立派な秀吉像です。それは、弘前城内の隠し曲輪に安置されたもので、そこにはごく限られた者以外出入りが許されませんでした。秀吉像が、江戸時代を通じて弘前城内で守護神として祀られていたのです。
 弘前で一番歴史のある御菓子処にも、ミステリーがあります。御菓子処大阪屋(おおさかや)は、津軽藩とゆかりが深く、その居城があった弘前公園の近くに静かにたたずんでいます。初代は、豊臣家の家臣、福井三郎衛門で、大阪冬の陣夏の陣で最後まで奮戦しましたが、一族は、豊臣家滅亡とともに津軽藩をめざして必死に逃れました。二代藩主信枚は、豊臣家のために最後まで戦った一族を武士の鏡と讃えて、下名で藩のお抱え菓子商である御菓子処となり、名字帯刀まで許可しました。大阪屋は現在まで374年続いています。現在の当主は、12代目の福井博さんで、大阪屋が長く続いたのは、津軽家の絶大な庇護を受けていたのが一番の理由だと述べています。
 しかし、これは徳川家康の戦後処置が寛大だったことも関係しています。石田三成の七人の子供は実は一人も殺されていません。全員生き延びました。長男・石田重家は寿聖院という寺の住職になり104歳まで生きました。次男・石田重成は、関ケ原の西軍の敗北の後、妹と共に友人の津軽信建を頼り、津軽家に落ち延びて隠棲し、子孫の杉山家は津軽藩重臣として存続しました。三女・辰姫は津軽信枚と恋愛結婚し、石田家の血脈を津軽家に伝えました。家康の関ヶ原の処置は非常に寛大で、小西行長、宇喜多秀家、大谷刑部等の子供を一人も手にかけませんでした。更に、真田信幸の必死の助命嘆願を受け入れ、わずか二千五百の兵で三万八千の秀忠軍を上田城へ引き止めて関ケ原合戦に遅参させた真田昌幸、幸村親子も助命しました。大阪冬の陣で、真田丸の攻防戦における徳川軍の死傷者は数千人に上ったといわれますが、この数は徳川軍全体の8割にもあたったそうです。大阪夏の陣で幸村の指揮の下、真田軍は10倍以上の敵に必死の突撃を開始しました。家康本陣の前備えである越前松平勢を一蹴し、武田家なき後は戦国最強ともいわれた徳川軍を散々に蹴散らしました。この時、家康の本陣にあった馬印(大将の位置を示す旗印)が倒されました。家康本陣の馬印が倒されたのは、武田信玄に打ち破られた三方ヶ原の合戦以来のことでした。当然、家康も必死に逃げました。かれにとって生涯2回目の敗走でした。家康は、自刃寸前にまで追い詰められました。しかし、数に圧倒的に勝る徳川軍は勢いを盛り返し、真田軍に攻撃を集中しました。幸村は遂に家康の首を取ることを諦めて戦線を離脱し、疲労で動けなくなっているところを打ち取られます。
 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、武士の棟梁であり、事実上、日本の最高権力者でした。真田幸村が、征夷大将軍・天下人徳川家康を敗走させて、自決寸前まで追い詰めたことは日本一の武将を意味しました。ゆえに、島津家当主の島津忠恒は、真田日本一の兵(つわもの)、古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由と激賞して、真田幸村は、後世まで名を残したのです。家康に逆らった敵のはずの幸村は、多くの物語で取り上げられ、幕府もそれを禁ずることはありませんでした。そして、現在真田丸がNHKで放送されて、優柔不断で、こっけいな新しい家康像が話題になっています。
 家康は、正室築山殿と嫡男信康を信長の命令で殺しました。そして、淀の方、秀頼と息子の国松を殺しました。しかし、これは平清盛の継母池ノ禅尼の源頼朝の命乞いが関係しています。かれが、最も尊敬していた人物は頼朝でした。頼朝の前例に習い、同じ宇都宮二荒山神社で戦勝祈願した話は有名です。その後の平家の滅亡を考えると仕方がなかったかもしれません。それ以外は、家康はとにかく寛大でした。実際、秀頼の娘は助命されて鎌倉の東慶寺に入り、門主の尼僧になりました。幸村の次男大八(だいはち)は大阪落城のとき、伊達政宗の重臣、片倉重綱の陣中に匿われ、後に仙台藩士となり、仙台真田家は真田徹さんまで十四代続いています。戦国時代は、幸村の死をもって終焉します。
 家康は、信長、晩年の秀吉の残酷さを見て学習したのでしょう。徳川家康は、江戸の基礎を作り、長い太平の世を築きあげました。そして、尊い人命を多数救い、現代のミステリーロマンにも貴重な貢献をしています。真田丸等も参考にして、人物像を再評価しても良いかもしれません。徳川家は、十八代目の徳川垣孝氏が徳川記念財団を設立して、現在に至っています。

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